内田麻梨香『科学との正しいつきあい方』
中田麻梨香内田麻理香著『科学との正しい付き合い方』の副題は「疑うことから始めよう」なのですが、これを見て「さて、科学との正しい付き合い方はあるのだろうか?」という疑問が早速頭に浮かんでしまったのは、まあ行き過ぎでしょう(苦笑)。
本書では、副題にあるように。「疑う心」について再三強調されています。その言葉だけを見ると科学的思考法って普通の人にはできないと思われるかもしれません。でも「疑う心」とは、結局のところ事実を確認すること、つまり「裏を取る」ことです。「裏を取る」ことは科学にかぎらず何らかの判断を行うときに行われることですよね。もちろん、科学には科学なりの約束事がありますが、それはどの分野でも変わらないはずです。その約束事自体は科学哲学でも議論の続くことではありますが。
まあ、科学は疑ってばかりかというと、信じることも要求されるわけで。例えば実験法とかは、その手順を「信じて」手際よく行えることが要求されます。手順について毎回疑っていれば実験にならないわけで。結果の解釈にしても、前提となる知識について取りあえず「信じて」おかないと、結論は出せませんし。結局は「疑うこと」と「信じること」のバランス、というか、その場の状況に応じて使い分ける柔軟性が鍵となるのでしょう。
では、なぜ科学との付き合い方を学ばなければ行けないのでしょうか?これは、「誤解3 「科学は、身近ではない」ってホント?」(p.56)でも指摘されているとおり、科学は身近にあふれています。そして、病気になったときに医者にかかるなど、専門家を使って生活しています。その中で、複数の選択肢の中から選択する必要に迫られます。具体的な科学知識についてすべてを詳細に知ることは無理ですし、その必要もありません。でも、選択を迫られたときに適切な判断が下せるようなスキルは身につけておいた方が、なにかと有利なことが多いでしょう。マネジメントでも、専門家と同等の知識は求められませんが、専門家を使いこなして目標を達成するだけの知識は必要とされるのと同じです。
だいたい専門家といえども、自身の専門分野以外の多くでは限定された知識しか持っていませんし、それを要求されたら閉口するでしょう。非専門家に対して判断するための材料を提供するというのは、それ自体専門的なスキルが要求されますので、サイエンスコミュニケーターへの期待としては、「科学のすごさを伝える」というロマンあふれることもありますが、私としては「適切な判断を下すためのスキルを伝える」という点に期待するところ大です。科学のすごさばかりを強調しても、薬害のように負の側面が顕在化したときに、一気に不信に転じかねません。また、「薬害は根絶できるもの」というある意味科学に対する過信によって、専門家自身が自縄自縛の立場に陥るだけなんではと、私なんかは思ってしまいます。でも、本書に出てくるような科学マニアには受けないだろうなあ。
サイエンスコミュニケーション活動の課題として、「結局、マニアにしか伝わっていない」(p.234)という課題を指摘されています。残念ながら、本書もそもそも科学に関心のある人しか手に取らないのではないかというところが悩ましいところ。まあ、「理系は「疑う心」が弱い?」(p.250)で指摘されているように、「答えが出せないことはペンディングする」(p.112)こととか、「「わからない」と潔く認める」(p.124)ことができないことがより大きな問題を引き起こしたりしますから、それはそれで有意義とは言えるでしょうけど。
「分かっていないことが分かっている」のは科学の中でも理解が進んでいる方。「分かっていないことが分かっていない」ことがまだまだいっぱいあるのが科学。そして、分かっていなかったことを気付くきっかけになるのが、「失敗から学ぶ」(p.131)ことなのでは?失敗を単に無くすべきものとしてだけでなく、さらなる知識の拡大に結びつけるやり方、それが科学的思考法であると言えると思います。
(訂正)著者の名前を間違えるとは(汗)。大変失礼しました。